第11章
 理想と現実の狭間で

 深夜、『天翔ける医療団』の本部ビル。
 ルーヴェはマレーネと共に、とある部屋の前にいた。その部屋は鉄の扉と厳重な鍵に守られて
おり、関係者以外は立入禁止となっている。ルーヴェもマレーネも入った事がない。
 だが、今、マレーネの手にはこの部屋の扉を開けるカードキーがある。ルーヴェが父の元から
盗み出したのだ。もしバレたら二人とも無事ではすまない。この組織を追い出されるかもしれな
い。だが、それでも二人はこの部屋を開けたかった。真実を知りたかった。
「彼はこの部屋にいるはず。いいわね? 開けるわよ」
 マレーネの言葉に、黙って頷くルーヴェ。マレーネは扉を開けた。
「なっ!」
 部屋の中を見た瞬間、ルーヴェは絶句した。
「なんて……事……」
 マレーネも同じ様に絶句していた。自分の中の大切な何かが崩れていく。正義も、愛も、他人
を信じる心も、全てが壊れ、崩れていく。
 それはルーヴェも同じ気持ちだった。いや、肉親が関わっている分、ルーヴェの方がショック
は大きい。
 何だ、これは? なぜ、こんな物がここにある? 父や母はここで一体、何をしていたのだ?
「父さん、母さん、なんて事を……。こんな事、許しちゃいけない。こんな事、絶対に……!」
 真実。それは十五歳の少年の心を傷つけ、歪ませるのに充分な力を持っていた。そして彼は
友や恋人と共に罪を犯す。



「!」
 ルーヴェは悪夢から眼を覚ました。寝汗で服が皮膚に張り付いている。気持ち悪い感触だ。更
に、
「ぐっ…!」
 背中に激痛。マレーネに撃たれた箇所だ。傷口には包帯が巻かれてあり、治療はしてあるよう
だが、それでも痛みは治まらない。
 取り合えず状況を確認する。ルーヴェはベッドの上に寝かされていた。ベッドや布団は清潔。
薬の匂いと清純な空気。ベッドはルーヴェが使っている物以外にも、三つほど置かれているが、
ルーヴェの他に寝ている者はいない。どうやらここは入院患者用の病室のようだ。そして、
「やあ。やっと起きたね、兄さん」
 突然の声。それは先程、夕陽の中で再会したかつての友、ノイズ・ギムレットのものだった。
 彼は病室の扉の前に立っていた。腕を組んで、ルーヴェの顔を見ながら、ニヤニヤ笑ってい
る。
「全然眼を覚まさないから、死んじゃったかと思ったよ。良かった、良かった」
 からかう様に言うノイズを無視して、ルーヴェは窓の外を見た。強化プラスチック製の窓には鉄
格子が付けられている。その向こうにあるのは夜の闇。マレーネに撃たれてから、かなりの時間
が過ぎているようだ。
「ここはどこだ? 今は何時だ? 俺はどうしてここにいる? それにお前はどうして俺と一緒に
…」
「慌てない、慌てない。それに質問は一回ずつにしてよ。答えるのに困るからさ」
「……ああ、悪かった。じゃあまずは、ここはどこだ?」
「『天翔ける医療団』の移動本部、フローレンスの中」
「今は何時だ?」
「午後十一時」
「俺はどうしてここにいる?」
「俺がマレーネお姉ちゃんに頼んだからだよ。ルーヴェ兄さんを助けてくれって。でないと俺が持
っている『ナイトメア』のデータは渡さない、ってね」
「! お前が、どうして俺を?」
 ノイズにとってルーヴェは敵のはずだ。それなのになぜ? 疑問に思うルーヴェに、ノイズはニ
ヤリと笑って答えた。
「マレーネお姉ちゃんが苦しむからだよ。あの女はまだ、お兄ちゃんの事が好きみたいだからね
え」
 ノイズのその言葉に、ルーヴェは驚きながらも納得した。証拠は、自分との再会を心から喜ん
でいたマレーネの様子と、今も痛む背中の傷だ。脊髄や心臓などの急所から大きく外れている。
わざと外したとしか思えない。
 だが、それならばなぜ、マレーネはルーヴェを撃ったのか? 今も愛している男をなぜ?
「マレーネお姉ちゃんがどうしてルーヴェお兄ちゃんを撃ったのか、その理由を知りたい?」
 ノイズが質問する。ルーヴェの心境を完全に読んでいるようだった。
「…………ああ」
 ルーヴェはあっさりと、そしてはっきりと答えた。ダンたちの事は心配だが、このままでは帰れな
い。真実を知りたかった。
「じゃあ教えてあげるよ。そろそろ時間だし、俺についてきな」
 そう言ってノイズは、紫色の髪の毛の中から一本のピンを取り出した。それを扉の鍵穴に入れ
て、少し動かす。
「今時シリンダー式の鍵なんか使っているとはね。こんなの、鍵をかけてないのも同然だ」
 苦笑するノイズ。彼の言うとおり、鍵はあっさり解かれた。
「ノイズ、お前、いつの間にこんな技を?」
「四年前とは違うってことさ。今の俺はケンカとスポーツ以外なら、結構自信がある。それじゃあ
外の見張りはヨロシク頼むね、ルーヴェ兄さん」
「……ああ。まったく、人使いが荒いな、お前は」
「褒め言葉として受け取っておくよ」
 そう言ってノイズは扉を開けた。同時にルーヴェは外へ飛び出す。



 同時刻。深夜のイスタンブールに三機のMSが突入した。
 先頭を行くのは叢雲劾のアストレイ・ブルーフレームセカンドL。フライトユニットも兼ねた背部
の特殊武器《タクティカル・アームズ》の力で夜空を飛ぶ。その後をダン・ツルギのサンライトが飛
び、ステファニー・ケリオンのサンダービーナスが地を走って追う。
 音をほとんど立てずに飛ぶセカンドLとサンライトも凄いが、注目すべきはサンダービーナス
だ。速い。低速とはいえ、空を飛んでいる二機に遅れる事なくついて来ている。
 三機のMSが目指しているのは、イスタンブール港。そこに停泊している病院船フローレンスに
ルーヴェと劾の雇い主が捕まっているのだ。
 夕方、ハルヒノ・ファクトリーを訪れた劾からこの情報を聞かされたダンたちは、ルーヴェを救
出するため、同じ目的を持つ劾たちと手を組んだ。もっとも、劾の雇い主はわざと捕まったらし
い。彼は捕らわれる前に劾たちに救出するための手筈を伝えており、作戦開始の時間まで指定
していた。
 劾は作戦の内容をダンたちに教え、協力を要請した。これも彼の雇い主の指示だと言う。
 ダンたちはその要請を聞き入れた。作戦そのものには問題は無いし、時間も無かったからだ。
ぐすぐずしていたら、捕らわれた二人の身は更に危険になる。
 午後十一時、ダンたちは分散し、作戦を開始した。
「ダンとか言ったな。お前のMSは太陽の光で動いているそうだが、夜でも大丈夫なのか?」
 通信で劾が訊いてきた。ダンは答える。
「大丈夫だ。昼間に充電しているし、月に反射する太陽光も電力にする事が出来る。昼より行動
時間は制限されるが、二、三時間ぐらいなら問題は無い」
「そうか。それならいい。遅れるなよ」
「ああ」
 頷くダン。そこへステファニーから割り込み通信が入る。
「それにしても、まさかサーペントテールと一緒に戦えるとは思わなかったわ。全世界指名手配
中の私たちと一緒に行動するなんて、サーペントテールの名に傷が付くんじゃないの?」
「別に構わん。俺たちは傭兵だ。正義の味方ではないからな」
 淡々と答える劾。その口調はプロとしての誇りと自信に満ちていた。
「俺たちの雇い主が、お前たちと一緒に戦えと言った。だからそうする。それだけだ。それに、お
前たちは悪い人間ではないようだ」
「あら、ついさっき会ったばかりなのに、どうしてそんな事が分かるの?」
 意地悪な質問をするステファニー。それに対して劾は、
「お前たちが今、こうして俺と一緒にいる事が何よりの証拠だ。命を懸けて仲間を助けようとする
人間は信用できる」
 と、あっさりと答えた。これには、さすがのステファニーも返す言葉が無い。
「一本取られたな、ステファニー。お、見えてきたぞ。あの空母か?」
 ダンのサンライトのカメラアイが、港に停泊しているフローレンスの巨体を捉えて、映像に映し出
す。そして、その甲板上に存在する三つの影も。
「あれはMS!」
「しかも戦闘用ね。なるほど、これが『天翔ける医療団』の正体。ちょっと残念だわ」
「そういう事だ。一人一機ずつ、任せてもいいか?」
「ああ、任せろ!」
「こっちもOKよ」
「よし、行くぞ!」
 劾の掛け声と共に、三機はフローレンスに突撃した。しかしダンたちは知らなかった。彼らが助
けようとしている者の一人が、彼らの敵である事を。



 イスタンブールの街中にMSが潜入したとの通報を受けた地球軍は、ただちにMS部隊を向か
わせた。大量のダガーを詰め込んだ輸送艇の部隊がイスタンブール上空に向かう。
 だが、輸送艇のパイロットが町の灯を見た直後、輸送艇の胴体に大きな風穴が開いた。続いて
翼のエンジン部分が爆発。炎と煙を上げて落ちていく。
 一機だけではない。二機、三機と次々と同じように落ちていく。その光景をギアボルトは、バス
ターダガーの操縦席から見ていた。
「ごめんなさい。でも、あなた達をあの町に行かせる訳にはいかないんです」
 最後の輸送艇が射程距離に入った。バスターダガーの腰に装備された改造ライフルが火を吹
く。輸送艇に風穴が開き、先の三機と同じように墜落する。
 一息つくギアボルトだったが、ハルヒノ・ファクトリーのミナから通信が入る。
「ギアボルト、地上から戦車部隊が来るわよ! 不時着した輸送艇からもMSが出て来たわ。気
を付けて!」
「了解。街には一機たりとも行かせませんから」
「ほう、自信たっぷりだな。さすがは元ゴールド・ゴーストと言うべきか」
 突然の通信。バスターダガーのレーダーがこちらに接近するMSを捉えた。機種はジン。識別
信号はサーペントテール。青と赤の部分が混同した奇妙な配色と頭部の大型バスターソードで
有名な、イライジャ・キールの専用機だ。
 イライジャのジンは、ギアボルトのバスターダガーの隣に立った。そしてギアボルトに通信を送
る。
「四機の大型輸送艇を墜落させるとは。噂に違わぬ凄腕だな」
「そちらこそ、街の守備隊の方は片付いたのですか?」
「ああ。MSの数は少なかったし、パイロットも未熟だったからな。苦労はしなかった。だが、こちら
はそうはいかないようだな」
 イライジャの言うとおり、今、二人に迫りつつあるのは正規軍の部隊だ。装備もパイロットの腕も
街の警備隊などとは格が違うだろう。
「フォーメーションを組みましょう。私が援護しますから、イライジャさんは前に出てください」
「了解。間違って俺を撃たないでくれよ」
「味方を撃つなんてしません。安心して戦ってください」
 そう、今は味方だ。サーペントテールとゴールド・ゴースト。商売敵であり、かつては命を懸けて
戦った敵同士。でも、今は共に戦っている。
「レオン隊長には叱られるかもしれませんね。でも……」
 不愉快ではなかった。
「来たぞ! 援護を頼む!」
 迫り来るダガー部隊に、攻撃を仕掛けるイライジャ。ギアボルトのバスターダガーもライフルを
構える。
「覚悟してもらいますよ、地球軍の皆さん。サーペントテールとゴールド・ゴースト、いえ、カラミテ
ィ・トリオが力を合わせたのです。あなたたちに勝機はありません!」
 新たな炎が夜空を焦がす。



 イスタンブール港に火の手が上がる。夜間に奇襲攻撃を仕掛けたダンたちだったが、敵はそ
れを予測していた。
「はっ、待っていたぜ、お前ら!」
 スティング・オークレーが乗るガンバレルダガーが、劾のセカンドLに向かってビームライフルを
撃ち、
「昼間の借りは返させてもらうわ…!」
 ステラ・ルージュのバンダースナッチは獣型から人型形態に変形、二振りの対艦刀《ツイン・ア
サルトリッパー》でサンダービーナスに切りかかる。そして、
「殺してやるよ。死ぬにはいい夜だと思うぜ!」
 アウル・ニーダのジャバウォックは人型形態から変形。西洋の伝説に出て来るドラゴンのような
姿になった。機械仕掛けの竜は空を飛び、ダンのサンライトに襲い掛かる。
「くっ!」
 ジャバウォックの背部のビームキャノンが火を吹く。正確な砲撃だったが、ダンはギリギリかわし
た。
「このパイロット、強い……!」
 ダンの額に冷や汗が流れる。今まで戦った敵の中でもトップクラスの強さだ。少しでも気を抜け
ば、即座に打ち落とされるだろう。
 強いのはアウルだけではない。ステラのバンダースナッチも、半端な強さではなかった。格闘
戦を得意とするサンダービーナスに、
「はあっ!」
 と切りかかってきたのだ。鋭い斬撃をかわすステファニー。《ツイン・アサルトリッパー》の有効範
囲を見切り、刃先の先端すれすれでかわす。しかし、それはステラの計算どおりの行動だった。
《ツイン・アサルトリッパー》の先端からビームの刃が伸び、サンダービーナスの頭部を貫こうとす
る。
 普通のMSならこれで終わっていただろう。しかし、サンダービーナスは普通のMSではない。
頭部にビームの刃が直撃するかと思われた瞬間、《ツイン・アサルトリッパー》のビームの刃は四
散してしまった。
「えっ!?」
 驚くステラ。彼女は知らなかったが、サンダービーナスの全身には強靭なラミネート装甲が施さ
れており、ビーム系の攻撃は全て無効化されるのだ。
「ふう、機体の性能に救われたわね……」
 バンダースナッチから離れ、身構えるサンダービーナス。その操縦席に座るステファニーの額
にも、ダンと同じように冷や汗が流れていた。
「気合を入れないと殺されるわね。でも、お生憎様。私を殺す人は決まっているのよ!」
 駆けるサンダービーナス。
「正面から来る? バカにしてるの!?」
 迎え撃つバンダースナッチ。四脚獣形態に変形し、その鋭い牙でサンダービーナスを噛み砕
こうとする。
 一方、
「どうやらお前が一番強いみたいだな。落ちろよ、青いの!」
 スティングのダガーは、劾のブルーフレーム・セカンドLに狙いを付けた。バックパックに搭載さ
れた四機のガンバレルが分離して飛行。機体内部から砲塔を突き出し、セカンドLに向かって一
斉攻撃。更にダガー本体もビームライフルで狙い撃つ。
「…………ふん」
 五方向からの同時攻撃。だが、劾は見事にかわした。そしてバックパックに搭載された《タクテ
ィカル・アームズ》を展開、ガトリング状態にする。
「大気圏内のガンバレルとは驚いた。だが、宇宙に比べて動きが鈍い」
 火を吹くガトリング砲。強烈な射撃でガンバレルを一機、撃墜した。
「ふん、やるじゃねえか。思ったより楽しめそうだ」
 武器を一つ失ったとはいえ、スティングの表情に曇りは無い。逆に微笑を浮かべている。彼は
強い敵が好きだった。それを倒せば、自分の優秀さが証明できるから。スティングにとって『敵』
とは、自分の名と価値を高めてくれるための生贄に過ぎない。
「戦意喪失せず、か。長引きそうだな」
 劾は操縦桿を握る手に力を込めた。敵の船に(わざと)捕まっている雇い主の安否が気になる
が、今は戦いに集中しなければ。
 三対三の壮絶な戦いは、イスタンブールの夜を激しく震わせていた。



 鳴り響く警報。逃げ惑う人々。
 ダンたちの襲撃によって、フローレンスの船内はパニック状態になっていた。船そのものには
被害は及んでいないのだが、すぐ側でMS戦が行なわれているのだ。このままでは危険だと判
断した医師たちは、患者たちを船から避難させる。
 混乱する船内を、ルーヴェとノイズは堂々と歩いていた。この状況下で二人を気にする者はい
ない。二人は避難する人々とは逆に、船の奥へと進む。
「こっちだよ、兄さん。真実はこっちにある」
 笑顔で歩くノイズ。どうやらこの船の構造は知り尽くしているらしい。ここに来る前に調べ上げて
いたようだ。
 船内を歩いているうちに、ルーヴェは四年前を思い出していた。まだ彼が理想に燃えていた医
師見習いだった頃。マレーネと出会い、彼女を愛し、そして、ノイズと出会った頃の話。懐かしく
も辛い日々の事を。



 ノイズは、ルーヴェの両親の友人で、協力者でもあるギムレット博士夫妻の一人息子だった。
ギムレット夫妻は共に第二世代のコーディネイターで、ノイズは貴重な第三世代のコーディネイ
ターだった。
 美しい金髪と青い瞳の美少年、ノイズ・ギムレット。だが、彼は頭脳は優秀だったが、生まれつ
き体が弱く、身体能力も低かった。その為、彼は両親の元で入院生活を余儀なくされた。生まれ
てからずっと病院暮らし。『天翔ける医療団』の本部病院で、彼は友達もいない孤独な日々を送
っていた。
 四年前のある日、まずマレーネとノイズが出会った。病院の廊下の角でぶつかり合うという古典
的な出会い。しかし、それを切っ掛けに二人は仲良くなった。そしてルーヴェがマレーネによっ
て紹介された。ノイズの事は両親から「そういう子がいる」と聞かされていたが、一度も会った事は
無かったし、彼がこの本部病院に入院している事は知らされていなかった。
 意気投合した三人は、色々な事を語り合い、楽しい日々を過ごした。だが、平和な時間は長く
は続かなかった。
 ある日、病室からノイズの姿が消えた。驚いたルーヴェがギムレット夫妻に尋ねると、病状が悪
化したので特別病棟に入院させたと言う。
 特別病棟は関係者以外立入禁止。医療団のメンバーといえど、上層部の許可が無ければ出
入りする事は出来ない。ここに入院されたという事は、極めて危険な状態だという事だ。
「息子の事は私たちに任せてくれ。たった一人の可愛い息子だ。絶対に死なせはしない」
 ギムレット博士のその言葉に、ルーヴェは引き下がった。だが、納得できなかった。昨日まで笑
顔を見せていた少年が、いきなり面会謝絶の重病患者になってしまうとは。もちろんそういう事も
あるが、それでも信じられない。
 不審に思ったルーヴェは色々と調べるが、手がかりは何も無かった。業を煮やした彼はマレー
ネと手を組んだ。そして父の部屋からカードキーを盗み出し、深夜、病棟内に侵入した。
 深夜の特別病棟は静まり返っていた。それでも警備は厳重で、監視カメラが建物の各所に設
置されていた。とても病院とは思えないほどの厳戒態勢だ。
 二人はカメラの死角になる場所を渡り歩き、慎重に足を進めた。そしてついに目的地にたどり
着いた。重々しい鉄の扉には、カードキーを差し込む形式の錠がかけられている。扉には『ノイ
ズ』と書かれたプレートが取り付けられていた。
 ルーヴェは嫌な予感がした。このまま帰った方がいい。自分の中の何かが、そう告げているよう
な気がした。
 しかし、それでもここで逃げるわけには行かない。友達を見捨てる事は出来ないし、真実も知り
たかった。
「彼はこの部屋にいるはずよ。いいわね? 開けるわよ」
 カードキーを手にしたマレーネの言葉に、黙って頷くルーヴェ。マレーネは扉を開けた。
「なっ!」
 部屋の中を見た瞬間、ルーヴェは絶句した。
「なんて……事……」
 マレーネも同じ様に絶句していた。
 部屋にあったのは粗末な造りのベッドが一台。その周辺には、ルーヴェが見たことも無い機械
や実験器具が置かれている。
 部屋にいる人間は、ルーヴェたちの他にあと一人、ベッドに寝かされている患者らしき少年。
名前は、
「ノイズ!」
 ルーヴェがそう叫んだどおり、少年はノイズ・ギムレットだった。しかし、実はルーヴェは一瞬、こ
の患者がノイズだと分からなかった。それほどまでに彼の風貌は変化していたのだ。金髪は紫色
に染まり、瞳も青から赤に変わっていた。頬はやせこけており、顔色も悪い。眼を開いて寝ている
その姿は、死人と見間違うほどだった。
 一体、この部屋で何が行なわれていたのか? ノイズはどうして変貌したのか? 謎だ。いや、
ルーヴェもマレーネも医師の端くれである。何となくではあるが変貌の原因は見当がついていた
し、この部屋で何が行われていたのかについても推測できた。だが、二人にはとても信じられな
かった。信じたくなかった。
 しかし、二人によって目覚めさせられたノイズは、二人の儚い希望を見事に打ち砕いた。
 この数日、ノイズは地獄を見ていた。
 血を抜き取られ、得体の知れない薬品を注入され、わざと病気にさせられ、苦しみ、悶え、死
に掛けた。
 ノイズに地獄の苦しみを与えたのは、彼の実の両親であるギムレット夫妻だった。その隣には
医療団の幹部たちが並んでおり、その中には彼等の頂点に立つエクトン博士の姿もあった。
 ノイズの言葉にショックを受けたルーヴェとマレーネは、時間の許す限りこの特別病棟を調べ
上げた。そして、様々な書類やコンピューターのデータなどを分析した結果、ついに真実を知っ
た。
 人体実験。
 この特別病棟はその為の施設だった。
 『天翔ける医療団』が世界中から集めてきた病人やケガ人の中には、孤児など身寄りの無い者
も大勢いる。その中から実験に適した者を選び、この特別病棟に監禁する。そして筆舌に尽くし
がたい、非人道的な実験を行なうのだ。
 身寄りの無い者が死んでも誰も騒がない。しかもここは病院だ。戦場の次に、人が多く死ぬ場
所。人の死は半ば当然の事として受け入れられ、怪しむ者は誰もいない。『天翔ける医療団』は
最高の材料調達屋であり、この病院は最高の実験場だったのだ。
 そうして得た貴重なデータを製薬会社や軍事産業などに売り捌き、莫大な資金を入手。その
金でボランティア活動をしていたのだ。
 更に、ブルーコスモスの依頼で作られた細菌兵器のデータも発見された。『ナイトメア』と名付
けられたそのウィルスはナチュラル、コーディネイターの区別無く感染し、不眠状態にするという
恐ろしいものだった。しかも既に試作段階に入っているという。
 激昂したルーヴェは翌朝、救出したノイズやマレーネと共に医療団の団長室に乗り込んだ。そ
こにはエクトン博士と、ギムレット夫妻がいた。
 証拠を見せつけ、父に自首するように勧めるルーヴェ。だが、エクトン博士はこう答えた。
「お前は世界を知らない。人を救うには金が要るのだ。より多くの人を救うためには、より多くの
金が要る。私は一人でも多くの人を救いたい。だから金を稼ぐ。それだけだ」
「だからと言って、細菌兵器なんて作っていいと思っているんですか! 何の罪も無い人たちを
殺していいと思っているんですか!」
 父の言葉に怒るルーヴェ。対するエクトン博士は冷静に答える。
「一人の死で、何千、いや、何万という命が救われるのだ。ならばどちらを取るべきか、答えは明
白だ。細菌兵器もデータを完全なものにし、ワクチンを作ればいい。その為にはより多くの実験
体が必要だが」
 そしてエクトン博士の言葉を、ギムレット夫妻が受け継ぐ。
「エクトン博士のおっしゃるとおり。それに実験体に選んだ者たちは力も知恵も才能も無いクズど
もだ。身内も友人も恋人もいない。死んでも誰も悲しまない。誰にも迷惑はかけていませんよ」
「そうね。むしろあんな連中の命で、より多くの人が救われるのだから、彼らは私たちに感謝すべ
きです」
 堂々と言い放つギムレット夫妻。その言葉と態度に、マレーネが怒る。
「死んでも誰も悲しまないって、だったらノイズ君はどうなるんですか! 自分たちの子供を実験
体に使うなんて、そんな事が許されると思っているんですか!」
 この怒りに対するギムレット夫妻の返答は、信じられないものだった。
「分かってないな、君は。自分たちの子供だから使ったのだ。誰にも迷惑はかからないからね」
「その子が死んでも誰も悲しまない。そう思ったから実験体にしたのよ。貴重な第三世代のデー
タを取るためにね。元々その為に作った子供だし」
 それはとても『親』の言葉とは思えなかった。
 いや、もっと早く気付くべきだったのだ。この二人は実の息子を全然まったく愛していない。そ
の証拠は目の前にあったし、いつも耳にしていたのだから。
「ノイズ。お前は私たち夫婦にとって、まさにnoiseだったよ。何の役にも立たない存在。せめて
実験体ぐらいはやってほしかったのだがな」
「もういいわ。あなたにはもう何も期待しない。どこへでも行きなさい。残り少ない人生、せいぜい
有意義に過ごすのね。さようなら、ノイズ。ああ、私たちの姓は名乗らないでね。あなたみたいな
欠陥品が私たちの子供だなんて知られたら、迷惑だから」
 noise。騒音、雑音、役に立たないデータ、不快な存在という意味の言葉。両親にそう名付け
られた時、ノイズ・ギムレットという人間の運命は決まっていたのだ。
 父と母に捨てられたノイズは、一言も発せずにその場に倒れた。そして意識を失い、危険な状
態になる。
 マレーネとルーヴェはノイズを治療しようとするが、ノイズの容態は悪化の一途を辿った。それ
でも何とかしようとする二人に、数日後、エクトン博士が取引を持ちかけた。ノイズを助ける代わり
に、ルーヴェたちが入手した人体実験のデータを全て渡せと言うのだ。
「! 父さん、あなたは人の命を取引の材料にするんですか!」
「珍しいことではなかろう。古今東西、よくある話だ。さあ、どうするのかね?」
 迷っている時間は無かった。二人は取引に応じた。
 その結果、ノイズは一命を取り留めた。しかし、全ての証拠物件はエクトン博士の手に渡り、ル
ーヴェたちは何も出来なくなった。
 意識を回復したノイズに、ルーヴェとマレーネは証拠を全て失った事を伝えた。ベッドの中で
それを聞いたノイズは、
「じゃあ仕方ないね。ルーヴェ兄さん、マレーネお姉ちゃん、あいつら殺そう」
 と冷静に言い放った。
 そして彼らは、それを実行した。



 回想の世界から戻ったルーヴェは、ノイズと共にある部屋の前に立っていた。
 場所はフローレンスの最下層。ノイズの話によると、ここは一般の医師や患者は立入り禁止に
なっており、厳重な警備体制が敷かれているらしい。もっとも今は人っ子一人いないが。
「外でMSが暴れているから、みんなビビッて逃げたみたいだね。おかげでこっちは大助かりだ」
 ノイズはそう言って、部屋の扉を開けた。
 途端に強烈な匂いが襲い掛かる。ルーヴェはこの匂いを知っていた。彼は傭兵として世界中
の戦場を渡り歩いてきた。その旅の中で何度もこの匂いを嗅いでしまった。薬品の匂いと、腐り
果てた死体の腐臭が混ざった、この世界で最も不快な匂い。
 部屋の中は…………地獄だった。肉が、骨が、皮膚が、血が、脳が、眼が、腕が、足が、指
が、髪が、飛び散り、切り刻まれ、砕かれ、焼かれ、溶かされ、穴を空けられ、床に、壁に、天井
に、試験管の中に、フラスコの中に、ビーカーの中に、標本箱の中に、巨大なポッドの中に。
「うげええええええっっっっ!」
 死体を見慣れているルーヴェでさえ嘔吐するほどの光景。背中の傷の痛みなど消えてしまうほ
どの凄惨な世界。これを地獄と言わずに何と言う? 立ち去りたかった。逃げ出したかった。反
射的に部屋から出ようとするルーヴェだが、ノイズの言葉が彼の足を止めた。
「……素敵だ」
 信じられない言葉だった。
 自分の耳を疑うルーヴェだったが、彼の耳はおかしくない。その証拠に、ノイズは眼を輝かせ
て、この地獄の景色を眺めている。その表情は恍惚としており、まるで欲しいオモチャを前にした
幼児のようだ。
「ああ、分かる、分かるよ。ここにいた人たちの苦しみと悲しみが。ひとおもいには死なせて貰え
ず、苦しんで、苦しんで、苦しみぬいて、実験データを手に入れるまで生かされ続けて、それか
らようやく殺してもらったんだねえ。ああ、素敵だ。ここは何て素敵な場所なんだ! これこそ俺の
求める理想! 俺が願う世界そのものだ!」
 叫び、喜び、称えるノイズ。ルーヴェには理解不能な世界だった。そしてノイズは部屋の奥、闇
に隠れた場所に眼を向けた。
「なあ、あんたもそう思うだろう? そう思ったからあんたは、この世界を作ったんだろう? そこで
キョトンとしているルーヴェ兄さんに教えてやってよ。マレーネお姉ちゃん」
 自分の名を告げられた女は、闇の中から姿を現した。確かに彼女はマレーネだった。『天翔け
る医療団』の若き現代表、ルーヴェの昔の恋人であり同志だった女、マレーネ・グロンホルム。し
かし、
「そうよ。ノイズの言うとおり、私がこの地獄を作ったの」
 彼女は変わってしまった。四年前のマレーネは、もういないのだ。



 サンライトとジャバウォックの空中戦は、ついに決着の時を迎えた。
「お前、死ねよ!」
 長期戦に苛立ったアウルが叫ぶ。ドラゴン型の強襲形態に変形したジャバウォックが、口内の
《スキュラ》を始めとする全砲塔をサンライトに向け、一斉射撃。光の渦がサンライトを襲う。
 しかしダンはジャバウォックの攻撃パターンを見切っていた。全てのビーム攻撃をかわし、ジャ
バウォックの懐に飛び込む。
「!」
「終わりだ!」
 輝く《サンバスク》。腰の剣を鞘ごと外して、勢いよく横に振る。凄まじい衝撃によってジャバウォ
ックの胴体が大きく凹んだ。
「うわああああああっ!」
 バランスを崩したジャバウォックは、そのまま下に落ちていく。下にはボスポラス海峡の冷たい
水が待っていた。天にも届くほどの水柱を上げた後、ジャバウォックは海峡の底へと沈んでい
く。
「くっ、冗談じゃない!」
 アウルはハッチを開け、沈み行く機体から脱出。泳いで岸を目指す。
 この様子をダンはサンライトの操縦席から見ていた。だが、ダンの視線は逃げるアウルではな
く、沈み行くジャバウォックに向けられていた。
「あのMS……勿体無いな」



 四脚獣形態に変形したバンダースナッチは縦横無尽に駆け回り、ステファニーを翻弄してい
た。運動性が自慢のサンダービーナスだが、本物の獣のごとく駆け回るバンダースナッチには
苦戦していた。
 自分と同じ様にスピードを武器とする敵。まるで自分自身を相手にしているかのようだった。ス
テファニーは苦笑する。今まで自分と戦ってきた者も、同じ様な気持ちだったのかもしれない。
「これは、ちょっと辛いわね。それでも…!」
 負けるわけにはいかない。
 一方、ステラも焦っていた。サンダービーナスにはビーム攻撃が通じない。バンダースナッチ
の最強の武器である《ツイン・アサルトリッパー》もその刃がビームであるため効果が無い。
 ならば牙で噛み砕くしかない。一度噛み付きさえすれば、サンダービーナスの細い体を砕くの
は容易だ。しかし相手はなかなか隙を見せない。迂闊に飛び込めば返り討ちにあうだろう。
 どうすればいいかと悩んでいたその時、サンダービーナスが動いた。頭部の《イーゲルシュテ
ルンβ》を発射。だが狙いは定まっておらず、やたらめったら打ちまくっている。下手な鉄砲も数
撃てば当たる、という事だろうか?
「舐められたものね!」
 突撃するバンダースナッチ。サンダービーナスは《イーゲルシュテルンβ》を放つが、バンダ
ースナッチは巧みなステップで全ての弾をかわした。そして、ついにサンダービーナスの懐に飛
び込む。
「もらった!」
 飛び掛るバンダースナッチ。肉食獣のごとき鋭い牙がサンダービーナスの胴体に迫る。だが、
「!?」
 バンダースナッチの動きは空中で停止してしまった。もちろんステラの指示ではない。
「ど、どうなっているの?」
 操縦桿を懸命に動かすステラだが、バンダースナッチは飛び掛ろうとした姿勢のまま動かな
い。
 よく見れば、バンダースナッチの全身に細い糸が絡み付いている。ただの糸ではない。MSの
力でも千切れることがない高分子ワイヤーだ。《イーゲルシュテルンβ》による砲撃の間にワイヤ
ーをサンダービーナスの指先から出して、張り巡らせていたのだ。
「狩りは成功ね」
 微笑むステファニー。乱雑な攻撃で獲物を挑発する。獲物がその攻撃に気を取られている間
に罠を張り、その中に飛び込ませる。自分自身をオトリにする危険な方法だったが、勝利を焦っ
たステラの油断もあり、成功した。
 後は電撃を流すだけ。しかし、ステラの対応も早かった。強引にハッチを開き、機体から飛び
降りたのだ。地面までかなりの高さがあったのだが、ステラは難無く着地。そして、サンダービー
ナスの方へ振り返り、
「…………!」
 無言で睨んだ後、夜の闇に消えた。その眼は強烈な敵意に満ちていた。
「……あらあら。どうやら、とんでもない娘を敵にしちゃったみたいね」
 顔は苦笑しているが、ステファニーの心中は穏やかではなかった。今回勝てたのは相手が油
断してくれたからだ。同じ手は通じないだろう。
「あの娘はまだまだ強くなる。末恐ろしい娘ね」
 次に戦う時があれば負けるかもしれない。戦慄を感じつつ、ステファニーはある疑問を口にす
る。
「で、これ、どうすればいいの?」
 主を失ったバンダースナッチはピクリとも動かない。操縦者がいないのだから当然なのだが、
少し可愛そうな気がする。



 ブルーフレーム・セカンドLの《タクティカル・アームズ》が変形。ガトリング形態から巨大な剣と
なり、
「ふん!」
 一閃。接近してきたガンバレルを二機、まとめて切り裂いた。
「! こいつ、やる……!」
 さすがのスティングも焦り始めた。残ったガンバレルは一機。しかも推進剤が尽きかけており、
迅速には動かせない。
 更に、
「スティング、アウルだ。悪い、やられちまった」
「こちらステラ。バンダースナッチから脱出したわ。救助をお願い」
 味方の援護も望めなくなった。いや、ここで手間取っていては、こちらの身が危なくなる。
「ちっ、ここらが潮時か」
 退くと決めたらスティングの行動は速かった。最後のガンバレルをセカンドLに突撃させ、
「はっ!」
 とセカンドLが切り裂いている間に、素早く撤退する。
「覚えておくぜ、青いの。今度会ったら、必ず倒す!」
 言い捨てるスティング。途中でステラとアウルを回収し、イスタンブールの街から速やかに脱出
した。
「『ナイトメア』は手に入れ損ねたが、仕方ない。細菌兵器ってのは趣味が悪いし、それにサンダ
ルフォンの奴は気に入らないしな」
 スティングはサンダルフォンが嫌いだった。あの男が怒りで顔を赤くする様子を思い浮かべると
気持ちが晴れ渡る。
「ブルーコスモスはジブリール様のものなんだよ。クソ狼め、精々いい気になってろ」
 一方、劾はスティングの後を追わなかった。今回の彼の仕事はスティングを倒すことではなく、
雇い主を救出することだ。それに深追いは禁物だ。
「さて、それでは行くか」
 気乗りのしない仕事だが、仕方が無い。劾を乗せたセカンドLは雇い主に指定された場所に向
かった。



 血まみれの部屋の中で、ルーヴェはかつての恋人と睨み合っていた。彼女はフッと悲しげに
微笑み、
「助かっちゃったのね。死んでくれれば良かったのに」
 と言った。その言葉を聞いて、ルーヴェも悲しくなった。
「自分に嘘をつくのはよせ、マレーネ。お前は俺を殺すつもりなんて無かった」
「……………」
 マレーネは答えなかった。再び悲しげに微笑む。
「マレーネ、お前、変わってしまったんだな。この部屋は…」
「ええ、そうよ。私は変わった。この私専用の研究室がその証よ。ここで私が何をしたか、聞かせ
てあげましょうか?」
「その必要は無いと思うよ」
 ノイズが口を挟む。
「俺の父さんや母さん、そしてルーヴェ兄さんの父さんたちがやってきた事さ。妙な薬を作ったり
使ったり、健康な臓器を取り出したり、他にも…」
「ノイズ、お前は黙っていろ」
 ルーヴェが叱る。ノイズは嘲笑の表情を浮かべ、沈黙する。
 そしてマレーネは、
「ノイズ君の言うとおりよ。私はここでエクトン博士たちと同じ事をしているの」
 と、はっきり口にしてしまった。それはルーヴェが一番聞きたくなかった言葉、知りたくなかった
現実。
「なぜ、どうしてそんな事を! こんなの、しちゃいけないって事は…」
「分かっているわ。ええ、分かっているわよ! でも、仕方が無いの。他に方法が無かったの
よ!」
 四年前、父親たちの悪行を知ったルーヴェは、マレーネ、ノイズと共に彼らを爆殺した。その
後、ルーヴェは組織を去り、ノイズも忽然と姿を消した。
「親殺しの罪の重さに耐えられなかった、あなたたちの気持ちは分かる。だから私も後を追わな
かった。そして、この『天翔ける医療団』を本当の意味で立て直すために力を尽くしたわ。それが
私の罪の償いだと思ったから。どんな理由があっても、私は人を殺してしまった。だからせめて、
より多くの命を救うことが罪の償いになると思った。でも!」
 現実はマレーネが考えていた以上に過酷なものだった。
 『天翔ける医療団』は大きくなりすぎた。寄付金の収入だけでは組織を維持できない。最新の
医療器具、機材、薬品、食料、ベッド、衣類……。金はいくらあっても足りなかったし、入った途
端に消えていく。
 加えて、以前エクトン博士らに協力していた組織から、新たな実験材料やデータ提供の要求が
あった。それを断ると、悪質な脅迫や、暴力による妨害などが頻繁に行なわれるようになった。
 もはや限界だった。心身共に疲れ果てたマレーネは、ついに悪魔の囁きに耳を貸してしまっ
た。いや、自分の弱さに屈してしまったのだ。
「組織を率いる身になって分かったわ。エクトン博士たちは間違っていなかった。より多くの人を
救うためには、時には犠牲が必要なのよ」
「本気か? 何の罪も無い人たちを殺して、その臓器を売り捌くのが正しい事だと、ウィルス兵器
を開発してテロ組織に売るのが正しいことだと、本気で思っているのか!?」
「正しいとか正しくないとか、そういう問題じゃないのよ。大切なのは、一人でも多くの命を救うこ
と。一人の命を売って得たお金で、千人の命が救えるのよ。だったら私は、一人を殺す方を選
ぶ。悪魔と呼ばれてもいい。罵られても、殺されてもいい。私は一人でも多くの命を救いたいの
よ」
 そう答えるマレーネの表情は、鉄のように硬い。動揺も悲しみも無く、淡々と語っている。
 だが、ルーヴェは分かっていた。マレーネの本当の気持ちが。
「だったら、お前はどうなるんだよ」
「!?」
「人を救うために人を殺して、それが正しい事だと信じ込もうとして、その結果、ボロボロになった
お前はどうなるんだよ? 苦しみ、もがいているお前は誰が救ってくれるんだよ?」
「私は、救われることなんて望んでいない。罪を償って、一人でも多くの命を…」
「だったらどうして俺を殺さなかった! 俺に慰めてほしかったんだろう? 救ってほしかったん
だろう? だから…」
「自惚れないで!」
 マレーネは懐から銃を取り出し、ルーヴェに向けた。それは夕方、ルーヴェを背後から撃った
銃だった。
「一人でも多くの命を救うことが私の望みよ。その為なら私は何でもする。たとえ、昔の恋人を殺
してでも!」
 マレーネは引き金にかけられた指に力を込める。
「もうやめろ、マレーネ! お前はもうボロボロに傷ついたはずだ。人を一人殺す度に自分を殺
してきたはずだ。だから、もう…」
 ルーヴェの言葉は最後まで発せられなかった。
 血と薬品の匂いが立ち込める部屋に、死の音が響き渡る。



 フローレンスの出口は船から避難しようとする人々で溢れかえっていた。皆、自分が逃げる事
に必死だった。なので、水面から船の壁に張り付き、小窓から船に潜入した人影には誰一人気
付かなかった。
「潜入成功、っと。ちょろいな」
 潜水服を脱ぎ捨てたオルガ・サブナックはそう言って、周辺を見回す。廊下にも各部屋にも、
彼以外の人影は無い。
 ダンたちが外で暴れている間にオルガが船に潜入して、ルーヴェたちを救出する。それが劾
の立てた作戦だった。
「さて、ルーヴェの奴はどこにいやがるんだ?」
 潜入前に劾が見せてくれた船内の地図を思い出している最中、異常な音が耳に飛び込んでき
た。
「! 銃声? いや、爆発音か?」
 戦場では聞き慣れているが、病院船には最も相応しくない音。オルガはその音がした方へ走
った。



「マ…………マレーネッ!!」
 力の限り叫ぶルーヴェ。だが、その叫びも空しいものだった。
 マレーネは驚愕の表情を浮かべ、後ろを振り返る。そこには、
「さようなら、お姉ちゃん」
 腕を組み、イタズラ小僧のような笑みを浮かべているノイズがいた。
「あ……」
 何か言おうとしたマレーネだが、口が開かなかった。彼女の胸には大きな穴が開き、大量の血
が流れ落ちる。立つ力も失い、その場に倒れるマレーネ。
「マレーネ!」
 倒れた彼女に駆け寄ろうとするルーヴェだが、突然、その眼前に球状の機械が現われた。まる
で人間の眼球のようなその機械は、二年前、ルーヴェも見た物だった。
「アルゴス・アイ!」
「そういう事。偵察用カメラとしても自爆兵器としても使える便利な奴さ。動かないでよ、ルーヴェ
兄さん。でないと兄さんまでふっ飛ばしちゃうからさ」
「ノイズ、お前は!」
「そんなに恐い顔しないでよ。俺は今、凄く気分がいいんだ」
 ノイズはルーヴェに銃口を向け、そのまま倒れたマレーネに近づく。そして彼女の服のポケット
を探り、何かを取り出した。
 それはCDのケースだった。中にはコンピューター用のデータディスクが収められている。ノイ
ズは笑みを浮かべる。
「あった、あった。一番大事な物は肌身離さず持っている事。そう言ってたね、マレーネお姉ち
ゃん。まあ、どこに隠してもアルゴス・アイで全てお見通しなんだけどね。『ナイトメア』の全データ
は貰ったよ。やっと四年前からの夢が叶う。こんなに嬉しいことはない……!」
「四年前からの夢、だと?」
「そう。俺をゴミのように扱ったあのクソ親どもを殺したのも、全てはこいつを手に入れるためさ。
こいつを使って世界中の人間に悪夢を見せてやる。極上の悪夢をね」
 ノイズは笑っている。その笑顔は今までのような子供っぽいものではない。悪魔のように危険
で、醜悪な笑み。
「想像しただけでワクワクしてくるよ。俺が病気で苦しんでいるのに幸せに過ごしてきた奴らが、
俺以上の苦しみを味わう! じわじわと苦しみ、そして、みんな死ぬ。アハハハハハハッ、凄い
よ、スカッとするよ! アハハハハハハハハッ!」
 大声で笑いながら、ノイズは死にかけているマレーネの顔を踏みつけた。
「この女もバカだね。細菌兵器を欲しがるブルーコスモスの依頼を受けて、俺が四年前に持ち出
し損ねたデータで『ナイトメア』を作ってくれた。お姉ちゃんは俺からデータを奪い取って、完全
な『ナイトメア』を作ってブルーコスモスに売るつもりだったみたいだけど、そんなのお見通しだ
よ。化かし合いは俺の勝ちだ」
 勝ち誇るノイズは、息も絶え絶えのマレーネに顔を近づけた。
「でも、分からないな。どうして未完成の『ナイトメア』をイスタンブールにバラ撒いたのさ? そん
な事をしたらルーヴェ兄さんに怪しまれるって考えなかったの?」
「………………」
 マレーネは答えなかった。いや、もう答える力も無いのか。
 ノイズは興味が失せた様にため息をついて、
「そう。じゃあ、もういいや。『ナイトメア』は手に入れたし、兄さんやお姉ちゃんをからかう事も出来
たし、俺は大満足だ。あとは…」
 ノイズは指を鳴らす。それまでルーヴェの周囲を漂っていたアルゴス・アイが、ルーヴェの頭頂
部に張り付いた。
「! ノイズ、貴様…」
「ルーヴェ兄さんには恨みは無いけど、俺、健康な人って嫌いなんだよね。お姉ちゃんと一緒に
死んでよ。じゃあね」
 ルーヴェの頭上のアルゴス・アイが怪しく輝く。爆発寸前。そして、
「!」
 銃声一発。
「ふん。ギリギリセーフだったか? よお、ルーヴェ。元気そうで何より」
「オルガさん!」
 開きっぱなしだった扉の向こうには、銃を手にしたオルガが立っていた。ルーヴェの足元に
粉々に砕け散ったアルゴス・アイの破片が散らばる。
「貴様は!」
 唇を噛み締めるノイズに、オルガは不敵な笑みを浮かべる。
「詳しい事情は知らないが、お前が敵でいいんだよな? アルゴス・アイを操るという事は、ダン
たちと同じ、ゲームの参加者という事か」
「……ああ、そうさ。俺の名はノイズ・ギムレット。そして、このゲームに勝利する男さ。こんな風に
な!」
 突然、船が大きく揺れた。そして、ルーヴェたちがいる研究室の壁が大爆発して、巨大な穴が
空いた。穴から大量の水が流れ込んできて、狭い部屋を水で満たしていく。部屋の扉が開いて
いるので一気に満たされる事は無いが、水の勢いは激しく、このままでは船そのものが沈む!
 しかし、そんな状況でもノイズは余裕の笑みを浮かべていた。
「アルゴス・アイは本当に役に立つねえ。それじあ、さようなら。アハハハハッ!」
 そう言ってノイズは携帯用の酸素ボンベを加えて、穴から外へ出た。身体能力が低いとはい
え、それでもコーディネイターの端くれだ。ここから海上まで泳ぐことなど簡単なのだろう。
「ちっ、俺たちも逃げるぞ、ルーヴェ!」
「は、はい!」
 オルガに続いて逃げようとするルーヴェだが、ふと後ろを振り返った。胸に大きな穴を開けた
マレーネの体が、水に浮かんでいる。
「マレーネ……。ん? あれは……」
 マレーネの手に何かが握られている。気になったルーヴェはマレーネの元まで泳ぎ(既に水は
腰の辺りまで満ちていた)、彼女の手に握られている物を確認した。
 それはCDケースだった。中には一枚のディスクが収められている。ケースの表面には、こう書
かれたシールが貼り付けられていた。
『バカな私の新たな罪』



 沈み行く船から脱出したノイズは、岸に上がり、岸の近くの廃屋に入る。そこには彼の愛機ハリ
ケーンジュピターが隠されていた。
「データは手に入れたし、長居は無用だね」
 廃屋の屋根を突き破り、ハリケーンジュピターは空へ飛び上がった。背中の大型ファン《テュ
ポーンブレス》を下方に向けて、その風力で空を飛ぶ。
 ハリケーンジュピターはイスタンブールの街を出た。遮る者も、止める者もいない。
「ふんふんふん〜♪ 最高!だね」
 ノイズは鼻歌交じりに、手に入れたディスクを差込口に挿入した。ディスクはハリケーンジュピタ
ーのバックパックに転送され、そこでデータを抜き取られる。そのデータを基に、バックパックの
バイオプラントでは細菌兵器が生成される。
「データは揃っているし、一時間もあれば充分だな。これでこの世界を…」
 夢を語るノイズだが、それを遮る者が近づいている事に気付かなかった。それは白い影。夜の
闇の中でもなお、輝きを忘れぬ太陽の機神。
「見つけたぞ、ハリケーンジュピター!」
 ダンの叫びと共に、サンライトは隙だらけのハリケーンジュピターを攻撃。ビームショットライフ
ルの強烈なビームが《テュポーンブレス》を破壊した。
「うわあああああっ!?」
 風を生み出す力を失ったハリケーンジュピターは、そのまま大地に落ちた。凄まじい落下音と
共に、土煙が立ち上る。
 サンライトも地面に降りた。鞘に収められたままの《シャイニング・エッジ》を構え、敵を睨む。
「ダン、そ…野郎を…対に逃がすんじゃ…えぞ!」
 サンライトの通信機からオルガの声が発せられた。携帯通信機からの通信なので、少し音が聞
こえにくい。だが、言いたい事は分かる。ダンもノイズを逃がすつもりはない。
「オーブでは逃がしたが、今度はそうはいかない。ここで仕留める!」
 サンライトが突進。鞘入りの《シャイニング・エッジ》を振り上げる。
「くっ、こんな所で、お前なんかに!」
 ハリケーンジュピターは腰の《ホイールオブフォーチュン》を放つ。高分子ワイヤーに繋がれた
円形の機械から、ビームの刃が放出される。当たれば無事ではすまない。
 しかしサンライトの動きは、ノイズの予想を超えるほどに速かった。《ホイールオブフォーチュン》
をあっさりとかわして、ハリケーンジュピターに接近。そして、刃無き剣を振るい、ハリケーンジュ
ピターの右腕を吹き飛ばす。
「うわっ! ク、クソがあっ!」
 悔しがるノイズだが、状況は極めて不利だ。ハリケーンジュピターの主力武器である《テュポー
ンブレス》は破壊され、《ホイールオブフォーチュン》も通じない。
 ならば撤退するしかない。ジャンプして後方に下がるが、
「あら? こんなに夜遅く、どこへ行くのかしら? 子供は夜更かしなんかしないで、さっさと寝なさ
い」
 ステファニー・ケリオンが操る金色の雷神が、ハリケーンジュピターの背後に現われた。雷神サ
ンダービーナスはその右足を振り上げた。足の先には鋭い刃が煌いている。
「眠れないのなら、私が子守唄を歌ってあげましょうか? いえ、葬送曲の方がいいかしら?」
 ノイズの返答を待たず、サンダービーナスの右足は振り下ろされた。刃はハリケーンジュピタ
ーの背中に命中、バックパックを破壊した。
「なっ……!」
 絶句するノイズ。バックパック内のディスクも、『ナイトメア』のデータも全て失われてしまった。
「な、何て事を、お前ら、何て事を……!」
 怒るノイズだが、ダンたちも怒っていた。
「黙れ、このゲス野郎。ルーヴェが随分と世話になったそうだな。その上、妙な細菌までばら撒こ
うとしやがって。絶対に許さない!」
「ノイズ君。君、ちょっとやりすぎたわね。ここでゲームオーバーしなさい」
 戦闘不能に陥ったハリケーンジュピターに迫るサンライトとサンダービーナス。だがその時、レ
ーダーがこちらに接近するMSの機影を捉えた。機種は、
「ブルーフレーム! 劾さん?」
 アストレイ・ブルーフレームセカンドL。劾の愛機だ。この青いMSはサンライトたちの前に立ち、
手にした巨大剣を突きつける。
「悪いが、ここは手を退いてくれ。でなければ、俺がお前たちの相手をする事になる」
 劾の言葉には有無を言わせぬ力があった。彼は彼の雇い主を守るため、命を懸けていた。
「頼む、退いてくれ。今、こいつを死なせるわけにはいかないのだ」
 切実と頼む劾。操縦席の中で、頭を下げているのかもしれない。それほど真剣な願いだった。
 ならば、ダンはこう答えるしかない。
「分かった」



 長い夜が終わり、朝日が昇る。
 だが、ノイズ・ギムレットの気分は晴れなかった。彼専用のオケアノス艦『ウィルス』の艦長席で
一晩中むくれていたのだ。
「ちくしょう、ちくしょう、ちくしょう! あいつらめ、あいつらめ、あいつらめ!」
 この不機嫌な子供の様子を、劾とイライジャは黙って見ていた。もっともイライジャは完全に呆
れていたが。
「殺してやる、殺してやる、殺してやる。あいつらは絶対に殺してやる! お前たちも手を貸せ、
いいな!」
 ノイズの言葉に、イライジャは驚いた。
「手を貸せだと!? どういう事だ。お前の部下として働くのは今回だけのはずだ!」
 驚きと怒りを表すイライジャに、ノイズがあざ笑うように言う。
「今回だけ、とは言ってないよ。君たちには俺の部下として働いてもらう、と言っただけさ。ああ、
これからずっと、ってのを付け加えてなかったね。これは俺のミスだ。ごめん、ごめん」
 少し機嫌が良くなったのか、ノイズは笑顔を浮かべる。不快な笑顔だった。
「約束が違うぞ! 俺たちは…!」
「よせ、イライジャ」
 激昂するイライジャを劾が止める。
「どうせそんな事だろうと思っていた。お前の望みどおりにしよう。だが…」
「ああ、分かってる。今回の分の報酬はあげるよ」
 ノイズはポケットから一本の小さな瓶を取り出した。そして、それを劾に投げ渡す。
「それが薬だ。使用方法は普通の注射薬と同じだ。風花ちゃんだっけ? 早く楽にしてあげな
よ。もっとも、その薬はあくまで症状を緩和するだけのものだ。完全に治すことは出来ないよ」
「ちっ、卑怯な…!」
 イライジャはノイズに聞こえないように呟いた。
「可愛い風花ちゃんの健康を祈っているよ。それで、俺に何か言う事はないのかい?」
「……………」
 劾はしばらく佇んでいたが、スッと頭を下げた。
「ありがとうございます、我が主よ。これからも誠心誠意、あなた様のために働きます」
「うん、よろしい。これからも俺のために働いてくれよ、サーペントテールの諸君。ハハ、アハハ、
アハハハハハハハッ!」
 荒野に響く不快な笑い声を、劾とイライジャは黙って聞いていた。
 最強の戦士といわれた蛇たちは、見えない鎖に縛られていた。
 だが三日後、彼等の心を少しだけ晴れさせ、ノイズを再び不機嫌にするニュースが飛び込ん
できた。テレビのアナウンサーは明るい声で世界中にそのニュースを伝えた。
「次のニュースです。イスタンブールの街を襲っていた奇病のワクチンがついに完成しました。完
成させたのは『天翔ける医療団』の代表、マレーネ・グロンホルム博士。博士は残念ながら先日
の病院船フローレンスの転覆事故によって帰らぬ人となりましたが、彼女の残したデータは医療
団の研究チームたちに引き継がれ…」



 ミラージュコロイドを展開させたハルヒノ・ファクトリーは、イタリア上空を通過、地中海の空を誰
にも知られること無く飛んでいた。
 MS格納庫ではミナが、回収したジャバウォックとバンダースナッチの整備が行なっている。部
品は事情を知ったノーフェイスが提供してくれた。この二機の開発にはサードユニオンも協力し
ていたらしく、大量の部品が送られてきた。サードユニオンとブルーコスモスの繋がりは予想以上
に深いらしい。
 ダンとステファニー、そしてギアボルトは食堂で食事を取っていた。静かな昼食である。
「なあ」
 と、ダンがいきなり口を開いた。
「今回の事件で分からない事が一つある」
「何ですか?」
 ギアボルトが返事をする。
「どうしてマレーネって人は、ウィルスをイスタンブールの街に放ったんだ? 前にステファニー
が言ったとおり、あの街を殺すつもりだったのか?」
「ああ、私のあの説は撤回するわ」
 料理を終えたステファニーが厨房から出てきて、会話に参加した。
「本当にあの街をどうにかするつもりなら、一気に大量のウィルスをばら撒いているわよ。でも、彼
女がばら撒いたのはごく少量。被害者の数も、伝染性の高いウィルスにしては少なかったみたい
だし」
「けど、ワクチンは既に完成させていたんだろう? なのにそのデータを隠して、『ナイトメア』を不
治の病に仕立て上げた。なぜだ?」
 病院船が沈没する寸前、ルーヴェが手に入れたディスクには、『ナイトメア』のワクチンのデー
タが記録されていた。それをルーヴェは『天翔ける医療団』の医師たちに渡した。
 マレーネの悪行を知っていたのは上層部だけで、連中はあの事件のどさくさに紛れて姿を消
していた。マレーネの死によって、自分の悪事がばれる事を恐れたのだろう。
 上層部はクズだったが、末端の医師はまともな人たちだった。彼らはマレーネの遺産を受け継
ぎ、イスタンブールの街を救った。
「もしかしたら、彼女はルーヴェ君に会いたかったのかもしれないわ」
 ステファニーが呟いた。
「傭兵として世界中を飛び回っているルーヴェ君を捕まえるのは困難だわ。でも、『ナイトメア』に
よる病気が蔓延していると聞けば、彼は必ず現われる。だから……」
「ちょっと待て。じゃああの女は、ルーヴェに会うために、たったそれだけの事の為に街一つを地
獄に変えたのか?」
「なるほど。それはあり得ますね」
 ギアボルトまで賛同した。
「彼女は自分が間違っている事に気付いていた。けど、自分ではどうする事も出来なかった。今
までの自分を否定するという事は、彼女が今までやってきた事を、殺してきた命を否定するとい
う事。そんな勇気は彼女には無かった。誰かに止めてほしかった。救ってほしかった。殺してほ
しかった。だから、あんな無茶苦茶な事をしたのではないでしょうか。躊躇う事無く自分を殺して
もらえるように」
「そうね。血まみれで不衛生な研究室は、自分の罪を忘れないために。そして、この部屋を訪れ
た者に躊躇う事無く自分を殺してもらうために」
「うーん……。納得できるような、出来ないような……」
「出来なくてもいいのよ。私たちの言っている事は推測だし、所詮、私たちは部外者なんだから。
彼女の本心を知っているのは彼女だけ。でも……」
 ステファニーは悲しげな眼をする。
「もし、ギアちゃんの言うとおりだとしたら、彼女は私と似ているわね」
「? そうなんですか?」
「ええ」
 優しく微笑むステファニー。だが、ダンにはその微笑みは不愉快なものとして感じられた。
 過去の記憶に押し潰され、死にたがる女。なるほど、確かにステファニーとマレーネは似てい
る。だが、ステファニーは死なせない。俺はこの女を殺したりしない。絶対に!



 ルーヴェはトレーニングルームにいた。ウェイトリフティングやルームランナーなどで大量の汗
を流している。
「よお」
 疲れ切ったルーヴェに、オルガが声をかけてきた。その手には、オレンジジュースが注がれた
コップが二つ。
「飲むか?」
「…………ええ、頂きます」
 ルーヴェはコップを受け取り、腰を下ろした。オルガも隣に座った。二人は一緒にジュースを
飲み、同時に飲み終えた。
「ふう、美味いな」
「ええ」
「ルーヴェ」
「はい?」
「今まで色々あったし、これからも色々とあるだろう。だから…」
 オルガは、ルーヴェの肩に手を置いた。
「これからもよろしくな」
 そう言ってオルガはトレーニングルームを後にした。
 短い言葉だった。しかし、ルーヴェにはそれで充分だった。
「死なせてももらえないのか……。やれやれ、分かりました。これからもよろしくお願いします、オ
ルガさん」
 辛い思い出も、未来への決意も乗せて、ハルヒノ・ファクトリーは一路フランスを目指す。

(2004・9/11掲載)

次回予告
 未だ目覚めぬ刃の封印を解く為、ダンたちはパリに到着。
 だがこの地もまた、戦乱の凶雲に覆われていた。
 うごめく陰謀。逃げ惑う人々。そして、現われた紅の砲撃神。
 かつてない強敵の前に苦戦するダン。その戦いを見つめる悲しき瞳は、ダンたちに何を
告げるのか?

 次回、機動戦士ガンダムSEED鏡伝2、絶哀の破壊神、
 「ラストウィル」
 花の都、破壊せよ、マーズフレア。

第12章へ

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